設立趣旨

E381A1E38287E38184.jpg
追体験.bmp

69300011.JPG

空海の思いを追体験、 高野の自然のなかへ
 - 「町石道を歩こう会」(第9回)へのお誘い -

空海の高野山寺開創は、弘仁7年(816)6月19日に始まります。その日、紀伊国伊都郡の山中にある高野(たかの)と呼ばれていた山地の下賜を願う上表文を、空海は嵯峨朝廷に出しています。その目的は、「修禅の道場」を建立するため、とその上表文に明記されていました。

それより一ヶ月ほど前、同年5月に一通の書簡が高雄山寺に届けられます。それは最澄の弟子であり、今は空海の門下にあった泰範に宛てた、最澄からの書簡でした。もう一度比叡山寺に戻り、自分とともに天台宗確立のために協力してもらいたいという最澄の切々たる念願が綴られていました。その一節に、天台と真言の教えには何の違いもない、という一節がありました。

天台宗は漢訳経典に基づく智顗(ちぎ)の教相判釈によって構成された仏教体系を基盤としています。しかし、それはインド仏教の現実の歴史を無視する観念的な仏教理論でした。求聞持法の修行経験を経て空海が選び取った最新の仏教、真言=マントラ修法を核とする新仏教の実践論とは、まったく異なるものでした。仏教の歴史と現状を無視して天台・真言の同一論を主張する最澄を、空海は泰範に代わって書いた返書のなかで、激しい言葉で批判しています。

顕密の対比は中世日本の仏教界に現れ、現在に至るまで日本仏教の基本構造だとされています。政治と格闘し、後には癒着した日本仏教史がその顕密論には反映されています。しかし、顕密弁別が空海の仏教思想の核心を成すものであったとは思えません。空海が恵果を介して伝授された不空金剛のインド密教を弟子たちに伝授するための道場を、平安京から遙かに遠い高野という深山に建設したことがその明らかな証です。

弘仁8年(817)、空海はもっとも信頼する弟子たちを高野に派遣します。高野山開創の事業が具体的なかたちで開始されたのです。空海が高野に入ったのはその翌年の、弘仁9年(818)11月16日のことです。現用暦に読み変えれば同年12月17日に当ります。厳寒の12月17日を選んでわたしたちが町石道を歩くのは、その日の空海の足跡を辿り、その日の空海の思いを聴き取るためです。1200年を隔てて空海の歩みを追体験するためです。

空海がたどったその道は、やがて高野往来の道として定着します。鎌倉時代の初め頃、1町ごとに五輪の石塔が立てられました。それが現在の町石道の道標です。空海自身が辿った道筋とは必ずしも同じではありません。しかし、大きく離れているわけでもありません。頭上に見える天空と高野の尾根を吹き過ぎる自然の息吹は今も昔も同じです。そこに、身を置けばそれを身を以て感じ取ることはできるのです。                 

皆様方の参加をお待ち申し上げます。


2014年11月20日

                            

「町石道を歩こう会」実行委員会

(代表:竹内信夫 東京大学名誉教授)