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高野 ―― 森の聖地へ

 「吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かって去ること両日ほどにして、平原の幽地あり。名づけて高野(たかの)という。はかりみるに、紀伊の国、伊都の郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤(じんしょう)、蹊(みち)絶えたり。」
空海が嵯峨朝廷に対して「高野(たかの)」という地の下賜を願って提出した上表文の一節。そしてえ、高野山の歴史文献への最初の登場である。意外に思われるかもしれないが、高野山という名の山は存在しない。高野山は地名ではなく、金剛峯寺のいわば「山号」、即ち金剛峰寺そのものをさす名称なのである。
金剛峰寺は、九世紀の初めに空海によって開創荒れた。当初は、「高野山寺」と呼ばれていたらしい。それが高野山という名の由来である。その土地はあくまでも高野と呼ばれるべきであろう。今は「たかの」ではなく「こうや」と読む。
高野は、周囲を高い峯に囲まれた山中の盆地、空海言うところの「平原の幽地」である。その「平原の幽地」の北西を扼(やく)して聳(そび)えるのが弁天岳。その弁天岳から流れ出る阿殿(おど)川源流付近に形成された小さな盆地が、高野山という名で呼ばれる聖地の地理空間である。この聖地は日本の山の多くがそうであるように深い森に覆われている。
「四面高嶺」と言われるように、高野の北側には、標高差1000メートル前後の峯々が屏風のように並び立つ。西から東に、弁天岳、転軸(てんじく)山、楊柳(ようりゅう)山、摩尼(まに)山と並ぶ。これらの峯々に相対して、南側には少し低い平坦な峯が連なる。高野はこれらの峯に囲まれ、松柏(しょうはく)の豊かな森に抱かれていた。奥の院のさらに奥、摩尼山頂付近には、高野の原風景を髣髴(ほうふつ)とさせる広葉樹と針葉樹の原生の森が今も残っている。
河内から紀ノ川流域に抜けるには、今は、道路も鉄道も、紀見(きみ)峠の下を貫くトンネルを通る。トンネルを出ると目の前に紀伊山地の北辺を成す山々が東西に長く横たわっている。そのなかに、上述の弁天岳、楊柳山などを望むことができるのだが、しかしその連なる山並みのなかにこれらの峯を識別するのはむずかしい。その背後に潜む高野山を下界から見ることはもちろんできない。高野山は紀伊山地の森に深く抱かれた小さな聖空間なのである。
この聖地は、吉野・熊野というやはり「野」の付く別の聖空間と、深い森を貫く細い山道によって結ばれている。その基軸は吉野と熊野を結ぶ南北の線だ。吉野と熊野の修験(しゅげん)の体系が成立するのはずっと後世のあるが、この二つは、熊野川を挟んで南北に並行し、熊野本宮を結節点として結ばれる。那智(なち)を南端とする熊野の奥駆(おくがけ)ルートを更に北に延ばすと、護摩壇(ごまだん)山を経て高野につながる。
空海の時代にはまだこのような修験の道は完成されていない。葛城(かつらぎ)と吉野がこの時代の山岳修行者たちの拠点であった。それは『続日本紀(しょくにほんぎ)』の伝える役行者(えんのぎょうじゃ)の説話、つまり鬼神たちを使役(しえき)して葛城と吉野の間に石の橋をかけ渡した、という説話によっても知ることができる。
青年空海が山野を跋渉(ばっしょう)していた頃、山岳抖藪(とそう)の道は、この二つの拠点から発して、さらに新しい方向に伸びていた。一つは、吉野から南に現在の大峯(おおみね)に至る。もう一つは、葛城から和泉山地へ、そして紀ノ川をもう一つの幻想の石橋で越えて、南岸の九度山(くどやま)山中の天野(あまの)に至る。この二つの道は、吉野と天野を結ぶ東西線で連結されていた。この連結線上に高野は位置している。
吉野から南に一日、そこから西に向かって二日。高野に至る道を空海はそのように説明している。これは、しかし、空海が初めて歩いた道ではない。奈良時代にはすでに、この道は何人もの山岳斗藪の修行者たちによって踏まれていたはずだ。空海もまた、「少年の日」に、その先人たちが開いた道を辿(たど)っただけのことである。
高野、天野という地名は高天原(たかまがはら)という神話的地名を私には連想させる。言葉の作りは同じだ。山岳修行者たちが好んで高山の稜線をたどりながら、あくまでも天にもっとも近い場所にとどまり続けようとしたのは、そこが世俗の下界から隔絶された、本来的に聖性を刻印された場所だったからではないか。
この吉野・高野・天野の山上の道は、吉野と天野において山下(さんげ)の世界と結ばれていた。そして、二つの世界を分かつ境界には明白なしるしが置かれていた。神の社(やしろ)である。吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)、天野の丹生都比売(にうつひめ)神社。そこは、山下から見れば世俗の世界が終る場所、山上から見れば聖なる世界の終る境界であった。
町石道(ちょういしみち)。高野山の山上と山下との間に空海とその弟子たちによって開かれた道に、鎌倉時代になって、一町ごとに五輪の石塔が立てられた。そのためにこのように呼ばれる。近世まではこれが高野参拝の主要な道であった。
近世、不動坂の登山道が開かれてからは、町石道を辿る参拝者は少ない。しかし、高野山の表の参拝道はあくまでも町石道である。袈裟掛(けさがけ)石や押上(おしあげ)石のような弘法伝説に繋がるものもこの道に点在する。
この道の大半、つまり天野から高野までは、かつての山岳修行者たちの道に重なる。天野から東の稜線に出たところ、大きな渓谷を挟んで、前方に高野のランドマーク、弁天岳が望まれる場所には、「二つ鳥居」と呼ばれるペアの石の鳥居が立っている。山下の慈尊院から「二つ鳥居」に上る道筋は、高野山開創時に、あらたに開かれたのではなかったかと私は考えている。それ以前にも、紀ノ川南岸から天野まではすでに道が通じていた。町石道はそれを踏まない。新しい聖地には別の上り道が整えられたのである。
いつの頃からか女人禁制(にょにんきんぜい)とされた高野山。それでも高野の聖地を自分の眼(まなこ)で拝したいと願う女性によって、高野山を取り巻く峯々の稜線を結んで、俗にありながら聖に接する、聖俗の両義性を実に纏う細い一筋の道が踏み開かれた。それがいつしか「女人道(にょにんみち)」と呼ばれるようになる。弘法大師への信仰に生きる女人(にょにん)の足がこの道を踏み開いたのである。高野山という聖空間を守るかのように柔らかくその道は一つの円環を閉じる。
遊動する二つの道の交差するところに、不可視の火花を発しながら、高野山の宗教性が輝き出る。高野山の宗教性と私が呼ぶものを、空海そのひとは、「法身(ほっしん)の里」、と呼ぶ。宇宙的生命の聖性を具現する大日如来の住まう場所、の意味である。
その法身の里に、今は、聖俗綯(な)い混ぜて老若男女(ろうにゃくなんにょ)が集い、大自然の聖性と交感する。かつて山岳修行者の歩んだ道は、人類共有の「世界遺産」として再認識されようとしている。                   (2003.08.17)
(東海道・山陽新幹線の車内誌『ひととき』2003年10月号に掲載されたものを再録)
© Nobuo Takeuchi 2003