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町石道の起源、空海の原点

 人が歩くことによって道はできます。深い山中には、猪や鹿などの大型野生動物がつくる「けもの道」があります。「けもの道」は人間が作ったものではないという意味ではただ一つの自然の道といっていいでしょう。それ以外の道は、すべて、人が歩くことによって、それも多くの人間の足が何度もそこを踏み固めることによって、できたものです。
 それでは「町石道」と呼ばれている山道は、どのようにしてできたのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。たいていの場合、この町石道は、空海の高野山開創と結びつけられて説明されます。その説明が必ずしも間違っているのではありません。私も、「町石道を歩こう会」の設立趣意書にはそのように書いています。しかし、空海が高野山を開くときに初めて「町石道」ができたのかと問われれば、そうではない、と答えなければなりません。
 実際には、町石道の大部分は、高野山開創以前からすでに存在していた道をなぞったものに過ぎません。空海の時代よりもずっと以前、おそらくは歴史資料が語る時代よりもずっと前から、紀ノ川の麓から現在の天野社(丹生都比売神社)に至り、そこからさらに現在の高野山の北側に並ぶ峰々を通り過ぎて、十津川上流の川岸に下る古い道があった、と考えるべきでしょう。その道はさらに天川沿いに天河社まで延びて、さらにそこから大峰に登り、大峰山脈の北に延びる稜線を辿って吉野まで続いていました。
 空海はこの道を高野山開創よりもずっと以前、二十年以上も前に歩いていました。「紀伊の国、伊都の郡、高野の峰に於いて入定の処を請け乞われる表」(『性霊集』巻九)は、高野山開創の経緯を今に伝えてくれる文章として有名です。それは、空海が弘仁七年、彼が四三歳の時に書いた上表文です。そのなかには次のような、これもまたよく知られた一節があります。

 空海、少年の日、好んで山水を渉覧す。吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かいて去ること両日ほどにして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊の国、伊都の郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤(じんしょう)蹊(みち)絶えたり。

 これは、空海が、「少年の日」といいますから、今でいえば二十歳前後の若いときに、吉野から大峰までの稜線を南に辿り、そこから西に向かって二日ほど歩いて高野(たかの)と呼ばれる場所にたどり着いた行程の貴重な記録です。吉野から高野までの道筋がどうなっていたかは、残念ながら不明ですが、天河社経由の天川(十津川上流)沿いの道だったと私は推測しています。
 空海は「四面高嶺」とか「平原幽地」と書いていますから、「高野」が峰々に囲まれた山中の盆地として認識されていたこともわかります。そしてまた、「人蹤蹊絶えたり」と書いています。この「蹤」は、人の歩いた跡が縦に連なっている様をいう漢字です。また、「蹊」は人の歩いた足跡がそのまま小道をなっているその道を意味する文字です。「桃李不言、下自成蹊」(桃李はもの言わず、下(した)自ずから蹊を成す)というのは『史記』の有名な句で「美しい花の下にはおのずから道ができ」という意味ですが、空海の見た高野の場合はそれと逆で、人の歩いた跡も消えがちで道もない、ということです。
 空海の「山水渉覧」については別のところ(『空海入門ーー弘仁のモダニスト』)に書きましたが、その「山水渉覧」のなかで高野を見出していたことは確かです。つまり高野山になる前の「高野」(たかの)と呼ばれる場所を空海は知っていたのです。しかし、吉野から南行一日、西行二日の山林抖藪の道は、高野の中心、つまり空海が言う「平原の幽地」を通ってはいませんでした。空海が歩いたのは、高野山の北の並び立つ峰々をつなぐ尾根道だった、というのが私の考えです。
 吉野からの道が大峰山脈の稜線を辿って南下し、弥山から西に弁財天の鎮座する天河社に下り、そこから天川沿いにさらに西に延びていたということはすでに見たとおりです。天川は十津川の上流です。その天川が高野山の東を扼する陣ヶ峰から東に向かって流れおちる中原川と合流して十津川となって南に流れ出る地点、そこは現在は猿谷ダム湖になっていますが、そこから中原川を西に遡り、陣ヶ峰(1105m)のピークを目指し、さらに西に延びる尾根伝いに摩尼山(1004m)、そして現在の奥の院を北側から巻くように楊柳山(1008m)から転軸山(900mほど)と巡り、そしてさらに西に向かって細い尾根を辿れば弁天岳(985m)の頂上に至ります。
 陣ヶ峰から弁天岳までの尾根道はほぼ標高1000mを上下する、現在でも歩きやすい道です。このうち摩尼山から弁天岳までの行程はいわゆる「女人道」と重なっています。弁天岳を南に下れば、その道は大門付近で今の「町石道」につながり、その後はほぼ現在の「町石道」の道筋に沿って天野に至ります。
 奈良時代以降、この道は多くの山林抖藪の行者がたどった道でした。空海もまたこの道を歩いたのです。吉野から南に一日で大峰を通って天河社まで歩けます。そこから天川に沿って中原川との合流地点まで、あるいはもう少し先の現在は岩倉稲荷の鎮座する辺りまでは一日で行けるでしょう。そこから陣ヶ峰までは急な上りになりますが、弁天岳まではゆっくり歩いても一日で到着できます。合わせて二日です。
 そうだとすれば、空海が「平原の幽地」つまり高野山となるべき場所を見ていたのは、弁天岳の頂き、岳の弁天さんのある辺りだったという推測も成り立ちます。その「幽地」は、100mほどの標高差をもって空海の眼下に広がっていたはずです。
 以上は高野山の周りの山々を歩きまわった経験に基づいて私が到達した結論です。単なる個人的な空想、あるいはせいぜい一つの仮説に過ぎない、と言われるかもしれません。しかし、それ以外に、空海の上表文が記録する「山水渉覧」の道筋は考えにくいのです。ですから私としてはこの仮説にそれなりの自信をもっております。
 以上の仮説が承認されるなら、町石道は高野山開創の後に整備された高野山参拝道ではあっても、その起源はさらに古い時代に遡ります。それはすでに多くの山岳修行者たちの足跡がしるされた修行の道だったと言えるでしょう。確実に言えるのは、町石道は高野山開創よりも古い、青年空海の修行の道だったのです。その道があればこそ、「法身の里」である高野山は開かれたというべきでしょう。
 町石道は空海の原点そのものです。若き日の「山水渉覧」が空海を高野に導いたのと同じように、今は私たちが空海への熱い思いをもって、高野山へとその同じ道を一歩一歩辿っているのです。

                                                  竹内信夫 2008.12.01

付記:
 現在の町石道の出発点である慈尊院は、高野山開創後に置かれた政所(まんどころ)の置かれた場所です。そこから丹生都比売神社の後方に当たる六本杉峠までの道、さらには六本杉峠から二ッ鳥居までの尾根道などは、高野山開創の後に作られた可能性があります。
 しかし、現段階では、少なくとも政所から六本杉峠を経て丹生都比売神社、丹生都比売神社から二ッ鳥居までの道筋は、高野山開創に先立つ古道の跡を残すものと考えています。
 一方、三谷に鎮座する丹生酒殿神社から三谷坂を経て丹生都比売神社に至る古道があります。この道も平安時代には高野山参拝の道として使われたことは史料に記録されています。高野山開創以前には、この道が山下と天野社を結ぶ主要道であり、従って青年空海もその「山水渉覧」の折には、この道を使った可能性が大きいと思います。
 いずれにしろ、現在の町石道が空海の高野山開創に不可欠の道であったことは疑いなく、高野山の歴史的展開のなかでその道筋に多少の変更が加えられたことがあったとしても、古来より多くの人々によって踏み固められた道であったという事実はいささかも揺らぐものではありません。
 本文の中でも触れたことですが、おそらくは江戸時代以降に「女人道」と呼ばれるようになる高野山周縁の道の歴史も古く、役行者の伝説にまで遡る古代の山林修行と深く関係する古道の痕跡であることを知っておいていただきたいのです。
 今回のオプション行程は、上記本文で言われている、陣ヶ峰から摩尼山、楊柳山、転軸山をつなぐ古道の趣をもっともよく残しています。特に、奥の院後方の峠から摩尼山に登る山道の西側(奥の院側)には原生林に近い状態で植物相が残り、空海の時代の高野の自然景観を彷彿とさせてくれるものです。
 現在の高野山のなかでも私がもっとも好む場所であることを言い添えておきます。